ハンク・ギャザーズの名前を知る人は多いでしょう。
前のブログにも書いたのですが、いまだにスポーツ選手が病気で死亡するようなことがあると思い出す名前です。
1990年のNCAAトーナメントのビデオ(VHS!)が出てきたので、また思い出しました。
当時はアメリカにいたのでNCAAトーナメントを堪能。印象深い年(のNCAAトーナメント)です。
まずUNLV
本当に強かった。
ラリー・ジョンソンとステイシー・オーグモンのタンデムを筆頭に、Final Four MOPを獲得するアンダーソン・ハントと現在は解説者として活躍するグレッグ・アンソニーのバックコート、ベンチからは後に熊谷組でもプレイしたモーゼス・スカーリー。
決勝でDuke相手に30点差をつけたゲームに象徴されるように、あまりの圧倒的な強さに「UNLVはNBAチームを持っている」とはよく言われたフレーズです。
いつものこととはいえアップセットが多かった年ですが、最終的には下馬評どおり、UNLVが制しました。
UConn(コネティカット大学)の台頭
東地区の1位シードでのぞむほど期待されていたコネティカットですが、地区準決勝でエルデン・キャンベルとデイル・デイビスを擁した5位クレムソン大学に大苦戦。残り1秒で1点ビハインド。最後のタイムアウトはとったものの、残り1秒だったため自陣ゴールとは反対側のベースラインからのスローイン。誰もがクレムソンのアップセットを確信したのですが、、、
エルデン・キャンベルの呆然とした表情が何度も映し出されました。
コネティカット大学初のファイナルフォー進出が期待されましたが、次のデューク戦ではクリスチャン・レイトナーに逆にブザービーターを決められ敗退。
その後もレイ・アレンなどを擁して何度もファイナルフォーに挑戦しますが(それこそコーチKのデューク同様)ことごとく負け。9年後の1999年、リチャード・ハミルトンやカリッド・エル=アミンのチームでようやくタイトルを獲得しました。
アーカンソー大学の躍進
アーカンソー大学もこの年強かった。4位シードながらあれよあれよという間に勝ち進み、22年ぶりのファイナルフォー進出。
"May-Day"と呼ばれたコンビ、リー・メイベリーとトッド・デイが中心でしたが、その大きな体で日本でも知られるオリバー・ミラーも存在感あり。
当時のコーチ、ノーラン・リチャードソンが語るエピソード「ある遠征で、ホテルのミラーの部屋を訪ねたらピザを4枚食ってた」と(笑)。アメリカのサイズのピザ4枚はデカイ。。。
ジョージアテック初のファイナルフォー
ジョージアテックもファイナルフォー進出までの道のりが長かった。
この年デニス・スコット、ケニー・アンダーソン、そしてブライアン・オリバーのいわゆる”リーサルウェポンスリー”を擁して快挙。1年生のシャキール・オニールにマクムード・アブドル=ラウーフを擁したLSUとのゲームもエキサイティングなものでした。
ロヨラメリーマウント、奇跡のエリートエイト!
最後はこれです。
「西地区」にふられとはいえ、11位シードからディフェンディングチャンピオンのミシガンやロバート・オーリーらを擁したアラバマなどを退けてのベストエイト進出。ハンク・ギャザーズの盟友、ボー・キンブルが放った”左手での”フリースローも見事でした。
以下、前のブログから
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1990年3月。
当時大学生だった僕は、いつもどおりバスケットボール部の部室でNCAAバスケットボールを見ていました。
ポストシーズン。
マイナーカンファレンスの学校がNCAAトーナメントに出場するには、いくらレギュラーシーズンの戦績が良くとも、カンファレンストーナメントに優勝して、たった一つの出場枠を確保する必要があります。
このシーズン、カンファレンスゲームを13勝1敗と圧倒的な強さで制し、West Coast Conference(WCC)に属する、ロサンゼルスのロヨラメリーマウント大学(LMU)も、地元開催のカンファレンストーナメントで優勝しなければ、CBSが全米放送するNCAAトーナメメントに出ることは出来ない状況でした。
<中略>
フィラデルフィアの貧しい地区で育ったギャザーズは、NBA選手になって豊かな生活を手に入れることが目標。
既にドラフト一巡目指名は確実とされていた4年生のギャザーズでしたが、健康体でないことをスカウトたちに知られると、NBA入りに支障が出ると考え、心臓に異常があることを隠してプレイし続けていました。
貧しいアメリカ?
既に乱立していた巨大なショッピングモールに、成熟期にさしかかっていたアウトレットセンター。広大なアメリカ全土を縦横無尽に走る、無料の高速道路。サングラスにデイパック。Jeepで通学するブロンドの高校生。そしてもちろん、華やかなNBAのバスケットボール。
・・・
ハワイとカリフォルニアの都市部にしか行ったことがなかった僕は、豊かなアメリカにしか目を向けていませんでした。
アメリカのバスケットボールの圧倒的な強さを、無数に存在する、ギャザーズのような層が支えているという一面は否定できません。
ギャザーズの死によって、1990年のWCCトーナメントは中止。辞退も考えられましたが、LMUはNCAAトーナメント西地区11位シードで出場します。
過去にレイカーズのHCもつとめ、この後には日本の松下電器でもコーチするポウル・ウェストヘッドのもと、徹底的なshoot-first。
1回戦でニューメキシコステイトを111-92で蹴散らし、2回戦ではディフェンディングチャンピオン、ミシガンに149-115。地区準決勝ではロバート・オーリーや(これも後に日本で活躍する)デビッド・ベンワーを擁したアラバマに、ディレイゲームを強いられながらも62-60で勝利。
ファイナルフォーをかけた地区決勝で、最終的に優勝するUNLVに101-131と大敗しましたが、ハンクの盟友ボー・キンブルの「左手」フリースローなどが非常に印象的な戦いを見せました。*キンブルは右利き
1993年にはボストン・セルティックスのスター、レジー・ルイスが練習中に死亡。(彼もまた、ボルティモアの貧しい地区出身)
ノートルダム大学からNBAに進み、現在はニューオーリンズのHC。カレッジ時代から不整脈が見られながら、非常に知的なプレイを見せたモンティ・ウィリアムスなどは好例と言えますが、心臓が原因で死亡するアスリートは少なくありません。
ギャザーズ最後のゲーム。相手のポートランド大学には、マイアミ・ヒートの現ヘッドコーチがいました。
日本にいてはなかなか想像がつかない、「あまりにも色々な」アメリカがあります。
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ここまで
来日した選手、コーチたち
上記のモーゼス・スカーリーだけでなく、このNCAAトーナメントで活躍した何人かの選手、コーチが日本にやってきました。
決勝で敗れたものの、翌1991年準決勝でUNLVに雪辱したデュークからはグレッグ・クーベックという白人選手が当時の丸紅でプレイ。
ミシガン大学のやはり白人選手、マイク・グリフィンも同様に丸紅で。
ジョージアテックは1985年に来日して日本で公式戦を行っています。その時1年生だったのがブライアン・オリバーでした。
LMUからはビッグマンのクリス・ナイトのほか、元ロサンゼルス・レイカーズのコーチでもあったポウル・ウェストヘッドが松下電器(当時)を指揮。
彼のスタイルであったラン&ガンを見せてくれました。
相手のアラバマ大学からは、NBAに進んだ後日本で選手、コーチとして活躍したデビッド・ベンワー。
そのほか、この年NCAAトーナメントに出場した選手たちも多くが来日しています。
もちろん生活のためもありますが、日本に良い影響を与えるべく、当時から優秀なバスケットボール関係者は多く日本に来ていたのですね。